LIFE LOG(花巻ビュー)

花巻ビュー

花巻のうまいもの、スポット、温泉、祭りなどの情報を発信します

羅須地人協会

2023年5月31日、編集いたしました。
花巻が気になる方に、お役に立つかもしれない情報を発信してまいります。

目次

羅須地人協会とは?

羅須地人協会とは、1926年に宮沢賢治さんが花巻農学校を退職した後に設立した私塾です。

  • 賢治さんは農民たちに農業技術や農業芸術論などを講義し、農村文化の創造に努めました。
  • 賢治さんはこの建物で自炊生活をしながら、チェロやオルガン、エスペラントなども習得しました。
  • 残念ながら、1928年に病気になって実家に戻り、協会の活動は終わりましたが、その思想や作品は今も私たちに影響を与えています。

無料駐車場を利用(3台分のスペース有)、西側から入りました。
この日は(2023年5月27日)は修学旅行らしき高校生が見学に訪れていました。

羅須地人協会の歴史

宮沢賢治ゆかりの地
[羅須地人協会の建物]
この建物は、明治45(1912)年に賢治の祖父が建てたもので、もともとは「雨ニモマケズ」の詩碑がある下根子桜(現在の桜町)にありました。
賢治は、大正15(1926)年3月に花巻農学校(現在の花巻農業高等学校) を退職した後、この建物で農耕自炊の独居生活を始めました。同年、賢治は「羅須地人協会」を設立し、病に倒れる昭和3(1928)年8月までの間、稲作指導や肥料設計等の農事相談に奔走しながら、農民講座やレコードコンサート、器楽演奏を楽しみました。世界のまことの幸福を願った賢治の活動拠点であり、創作活動の場でした。
賢治が亡くなった後、この建物は人手に渡り移築されましたが、昭和44(1969) 年花巻農業高等学校が若葉町から現在の場所に移転した際、その移転先の敷地内にあったこの建物を同校同窓会が譲り受け、現在の場所に移築し維持管理を行っています。生徒たちからは「賢治先生の家」 と呼ばれ、親しまれています。

賢治先生の家

つまりは賢治先生の家=羅須地人協会ということです。

 

 

「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい」聞いたことがある詩の一節でしょう。
上記は農民芸術概論綱要の一節であり、「われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である」が農民芸術概論綱要の結論です。
農業あっての賢治さんだったことがわかります。

上記画像は羅須地人協会の敷地内にある「花巻農学校精神歌歌碑」です。
碑ハ君臨シ=精神歌碑象徴

現在の羅須地人協会

  • 以前は花巻市桜町にあった羅須地人協会は現在の花巻農業高校敷地内に再興されています。
  • 入館料は無料、西側の3台分の駐車場が利用できます。
  • 以前は花巻農業高校に入館許可が必要でしたが、現在日中は自由に入館が可能となっています。

賢治さんの銅像

2006年、花巻農学校100周年を記念して羅須地人協会の敷地内に建てられました。
おなじみのハットとマント、賢治さんを象徴しています。

下ノ畑ニ居リマス

下ノ畑は今でも花巻市内桜町に存在します。
下ノ畑自体がめったに取り上げられることがありませんでしたが、2019年 NHKブラタモリ」で紹介されました。
賢治さんが農業に従事した証として貴重な資料であり、貴重な場所として注目されています。

hanamaki.hatenablog.com

現在の賢治詩碑の敷地内にも「下ノ畑ニ居リマス 賢治」が存在します。

hanamaki.hatenablog.com

 

角度を変えた羅須地人協会外観

やや北側から見る風景。
階段はあるものの2階へは上がれません。
しかしながら2階にも貴重な資料が残されているようです(未確認)。

やや東側から見る風景。
窓もきれいな状態、見事に復元されています。

やや南側から見る風景。
なかなか広い建物であったことがわかります。

羅須地人協会内

「下ノ畑ニ居リマス 賢治」白墨で書かれた掲示板の脇のドアから出入りします。
玄関近くで賢治さんのマントが出迎えてくれます。
マントの設置場所の脇に階段があり、以前は開放されていたらしいのですが、現在2階は閉鎖されています。

風の又三郎のマント

大正十二年の冬のこと。
ある日の夕方、防寒具ももたず寒さにふるえていた生徒・簡悟(花農大正十三年卒)の肩に 「これを着ていなさい」と、賢治は自分のマントをやさしく着せかけた。
簡は、花農卒業後 賢治の世話で盛岡高農成瀬先生の助手として勤務することになった。 
彼は終生、賢治の温情に感謝、このマントを常に大切にしていた。
昭和四十七年十一月・六十四才でこの世を去ったが、遺族も本人の意思を受けてこれまで大事にしてきた。
今もなお、このマントに包まれた賢治のマコトの愛のぬくもりが、ひしと身に迫ってくる。

賢治先生のやさしさが十分すぎるほど伝わってくるエピソードです。
下衆な私は「なんでも鑑定団」だと〇百万円かもと考えてしまいます(不謹慎でスイマセン)
さあ、居室や廊下など見事に復元された羅須地人協会を確認してまいりましょう。

賢治さんは数部屋あるどこかの部屋に寝泊まりしたと思われます。

賢治さんの妹、トシさんは亡くなる直前、この部屋で療養していたと言われています。

賢治さんとの農民たち

羅須地人協会集会場

賢治さんは農業技術や農業芸術論などを講義し、農村文化の創造に努めました。
おおよそ10畳の居室、極寒の花巻で「花巻の環境に適した作物は? どうやって育てたら収益になるのか?」などを話し合ったのではないでしょうか。

時には音楽…楽器演奏やレコード鑑賞も行われたのでしょうね。
冬季は隙間風が入るなど当時の環境では暖房の手段もそれほどない、身に応えるような寒さだったと思われます。

現在の羅須地人協会屋内からの景色、5月の緑が素晴らしく映えます。

 

賢治さん新聞

新しい農村の建設に努力する、花巻農学校を辞した宮沢先生
花巻川口町宮沢正次郎長男賢治(三十)氏は今回県立花巻農学校の教諭を辞職し、花巻川口町下根子に、同志二十余名と新しき農村の建設に努力することになった。きのふ宮沢氏を訪ねると、現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまってゐるやうに考えられます。そこで少し東京と仙台の大学あたりで、自分の不足であった「農村経済」について少し研究したいと思ってゐます。
そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し、生活即ち芸術の生がいを送りたいものです。そこで幻灯会の如きは、毎週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一回位もよほしたいとおもってゐます。幸同志の方が二十名ばかりありますので、自分がひたいに汗した努力でつくりあげた農作物の、物々交換をおこない、しづかな生活をつづけて行く考えです。と、語ってゐた。氏は盛中卒業後、盛岡高等農林学校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である。

雨ニモマケズの手帳は賢治さんが亡くなってから愛用トランクのポケットから見つかったのですね。
よくぞ、見つけてくれました、昭和6年11月3日の作品と推定されています。

賢治先生の素顔

集会所には賢治さんの写真が数点飾られ、素の宮沢賢治を確認できます。

花巻農学校の教師時代の賢治さん。
イギリス海岸や豊沢川、釜淵の滝などを生徒たちを散策したと伝えられています。

賢治さん作「双子の星」あらすじ

賢治さんの童話「双子の星」は、二人の童子が烏と蠍の喧嘩を止めようとするが、失敗して烏と蠍が倒れる。二人は烏の胸から蠍の毒を吸い出し、命を助ける。しかし、喧嘩騒動に巻き込まれ、日が暮れて夜になる。水精のお宮で銀笛を吹くというお役目を果たせないと王様から罰を受けなければならなくなるが、閃光とともに稲妻さんが現れ、あっという間にお宮に戻してくれた。彗星が現れ「王様に二人を旅に連れて行ってと頼まれた」と言い、二人を尾っぽにつかまらせます。しかし、それは彗星の嘘だったのです。彗星に振り落とされ双子の星は海の底に沈んでしまいます。海の底ではたくさんの海星が二人を悪しざまに罵ります。ここへ落ちてくる奴は何か悪いことをした罰で追放されたのだ。恐ろしい形相の大きな鯨はお前たちを一飲みしてやると脅します。その時です。銀色の光がパッと射さして小さな海蛇がやって来ます。この海蛇さんは星座図でわかる位置にあります。海蛇は「あなた方は悪いことをなさって天から落とされたお方ではないように思われます」と言い、海蛇の王様のところへ案内してくれました。海蛇の王様は二人を竜巻に乗せてお空に帰してくれました。二人を騙した彗星は海に落ちてナマコになります。

双子の星の原稿

賢治さんの関係者の言葉を代弁してみました(あくまで想像です)

  • 私たち(宮沢賢治さん関係者等)は賢治さんの志を受け継ぎ、羅須地人協会を再興しました。
  • 私たちは農業と芸術の両方に興味があり、自然と調和した生活を目指しています。
  • 私たちは農作業や肥料設計、花壇作りなどを行っています。
    また、レコード鑑賞会や童話朗読会、楽団練習なども楽しんでいます。
    私たちは農民芸術とは何か、どう表現するか、どう伝えるかを考えています。

私なりに羅須地人協会の印象をまとめました。
花巻在住の私が10回以上訪れた施設であり、賢治さんの生の声、賢治さんの息吹を感じることができる施設です。

賢治さんを感じる ★★★★★
賢治さんを偲ぶ ★★★★★
賢治さんをレスペクとする ★★★★★