2023年10月2日、編集公開いたしました。
花巻が気になる方に、お役に立つかもしれない情報を発信してまいります。
目次
高村光太郎とは?
- 高村光太郎は、日本を代表する詩人・彫刻家であり、父は西郷隆盛像を作った彫刻家の高村光雲です。
- 主な作品として、彫刻「乙女の像」、ブロンズ塑像「手」、木彫「鯰(なまず)」と詩集の「道程」、「智恵子抄」などが知られています。
- 幼少期から父親の影響で彫刻家を志し、東京美術学校で学びました。その後、欧米留学を経て、ロダンに代表される新たな芸術に魅了されました。
- 帰国後は日本社会や日本美術界の閉鎖性に反感を持ち、放蕩の生活を送りました。智恵子と出会い改心し、詩人としても活躍しました。
- 戦争協力詩を書いたことから戦後は花巻で山小屋生活を送りました。智恵子像(乙女の像)を制作しましたが、完成直後に肺結核のため生涯を終えました。
花巻での高村光太郎の軌跡
高村光太郎が過ごした太田地区は花巻の西に位置しています。
高村光太郎記念館並びに高村山荘を見学する方のために駐車場やお休み処が用意されています。
高村光太郎記念館入館料(2023年10月1日現在)
料金区分 | 通常料金 | 20人以上団体割引料金 |
---|---|---|
大人 | 350円 | 300円 |
各種学生・高校生 | 250円 | 200円 |
小・中学生 | 150円 | 100円 |
高村山荘入場料(2023年10月1日現在)
料金区分 | 通常料金 | 20人以上団体割引料金 |
---|---|---|
大人 | 350円 | 300円 |
高等学校生徒および学生 | 250円 | 200円 |
小学校児童および中学校生徒 | 150円 | 100円 |
かつては(2000年頃)大人の入場料は200円でした。
民間の施設なので、世の流れ、値上げラッシュで入館料・入場料も値上げせざるを得ないのでしょうね。
高村光太郎記念館
2015年に大きな改修工事が行われ、洗練された高村光太郎記念館となりました。
かつての高村光太郎記念館は当ページの最後、画像で確認できますが、それほど広くないスペースに光太郎先生の作品等が設置され、それはそれでよかったなあという思いです。
高村光太郎記念館は高村山荘近くの花巻歴史民俗資料館跡地に2015年4月、リニューアルオープンしました。
宮沢賢治さんの知人であった光太郎先生は宮沢家を頼り、地域の人たちと触れ合いながら晩年7年を過ごしました。
高村光太郎先生は彫刻家であり、詩人であり、画家であり、翻訳家であり、書道家でもありました。
そんな光太郎先生に関する作品、資料が数多く展示されています。
それにしても光太郎先生、大きかったんですね。
178cmの私と同じ位です(180cmだったらしいです)。
施設内は撮影禁止、入り口まではOKです。
充実の彫刻展示品が記念館の目玉です。
2014年以前の花巻歴史民俗資料館。
農機具等農業に関するもの、焼き物、工芸品等花巻の歴史を示すものが展示されていました。
高村山荘
住所 | 岩手県花巻市太田3-91-3(高村山荘総合案内所) |
---|---|
電話番号 | 0198-28-2270 |
開場時間 | 午前8時30分 |
閉場時間 | 午後4時30分(秋季以降は午後4時まで) |
休館日 | 年末年始(冬期悪天候の場合は臨時で休止する場合があります) |
2023年10月1日現在の情報です。
ちなみにかつての休館日情報は以下の通りでした。
12月~3月(積雪の状況による)豪雪地帯といっても過言ではありません。
新奥の細道
高村光太郎のみち
ここは、東北自然歩道 新奥の細道全42コースの1つ「高村光太郎のみち」です。
ここから東28Km の寒沢川を起点に、高村山荘を経由し、西の八方山を経て尻平川子民館に至る全長14Kの自然歩道です。八方山山頂には日本三清水寺の観音堂の祠があるほか、花巻市を一望できます。 八方山までは68Km. 登山口から頂上までの約1時間40分です。
ようこそ高村山荘へ
彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失い、東京から花巻の宮沢家へ疎開した後も終戦直前に花巻空襲を受け焼け出されました。そして終戦後に山居を決意、当地をその場所として 定めました。
戦後の物資難の中、廃墟となっていた営林署の作業小屋を何とか払い受け、山口集落の住民総出でこの地へ移築した小屋が現在の『高村山荘』です。山口分教場での寄宿生活の後、光太郎は昭和20年11月から昭和7年(1952)10 月までの戦後の7年間、この小屋を住いにして過ごしました。
高村山荘は小屋と、それを覆う二重の建物で構成されており、建物内部の通路沿いに見える、一番内側の小屋が光太郎が住んでいた建物です。その面積は七坪半、22・5平方メートルという、当時としても狭い建物です。
室内は天井が無く屋根は杉皮葺き、壁は荒壁、窓は障子一重という非常に簡素な造りで、冬場は雪風が室内に吹き込むこともありました。粗末な小屋でしたが、方々から光太郎を訪ねて来た多くの人たちに光太郎は快く会い、戦後の日本人にとっての大切な教えや導きをしました。光太郎は昭和27年10月に『乙女の像』制作のため東京へ向かい、像を完成させた後も太田村山口での山居生活に戻ることを望んでいましたが、それは叶うことなく、昭和31年(1956)4月2日、東京・中野のアトリエで73年の生涯を終えました。その後、地元太田の住民によって光太郎が住んでいた小屋を永く保存する運動がおこり、昭和32年(1957)に小屋を覆う最初の建物が完成。より万全に保護するため、昭和52年(1997) 高村記念会 (現・花巻高村光太郎記念会)が鉄骨造りの建物で小屋と最初の建物をさらに覆う、現在の形を完成させまた。
山荘の東隣には光太郎が来訪者のために建てた厠(トイレ)、通称『月光殿』 があり、その明り取りの『光』の文字は光太郎によって彫られたものです。光太郎が7年間を過ごした高村山荘を、どうぞゆっくりご覧下さい。
高村山荘は、光太郎さんがあえて厳しい環境を選んで生活、作品を生んだ住居です。
厳冬が近い高村山荘外観。
光太郎先生、冬はタクシーで花巻鰻の名店「新ばし」を訪れ、好物の鰻を食し、タクシーでまた山荘に帰っていったらしいです。
トレードマーク?のリュックサックと長靴で。
高村山荘、春から夏にかけては緑が映えます。
高村光太郎が暮らした山荘は当時のまま保存されています(写真の建物に囲まれて)。
どこから入るのですか? ここからです、ここから出入りします。
光太郎先生の活動を写真で振り返りましょう。
光太郎先生の日常生活、作品作りとともに花巻で生活する術を徐々に覚えていかれたのでしょう。垣間見ることができます。
高村山荘そのものは保存のため囲われています。
千恵子への思いを天に向かって叫んだ?とされる展望台、光太郎が筆をとった原稿の石碑も近くに設置されています。
春は桜と水芭蕉が見事!紅葉シーズンは散策にピッタリ!
光太郎先生が筆をとった原稿の石碑です。
かつての高村光太郎記念館。小さな施設にたくさんの資料が収められていました。
高村山荘・高村光太郎記念館は花巻観光スポットの選択肢に加えられています。
高村光太郎記念館・高村山荘の個人的感想です。
光太郎先生の存在感 | ★★★★★★ |
花巻への貢献度 | ★★★★★★ |
展示物の充実度 | ★★★★★ |