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花巻ビュー

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賢治さんゆかりの地案内板 花巻三大又路

2023年4月23日、編集公開いたしました。
花巻が気になる方に、お役に立つかもしれない情報を発信してまいります。

目次

花巻市内には賢治ゆかりの地が多数存在します。
この案内板では、その地域の賢治ゆかりの地を紹介しています。
30基ある案内板を巡って、賢治さんの足跡をたどってみませんか。

www.city.hanamaki.iwate.jp

宮沢賢治ゆかりの地案内板花巻市内に30基存在しています。
西は鉛温泉・なめとこ山」、大迫は早池峰山・河原坊」東和町「丹内山神社」石鳥谷「葛丸ダム」とまさに広範囲に渡っています。

花巻三大又路

花巻大三又路(はなまきだいさんさろ )は賢治さんゆかりの地案内板の一つで、花巻市ファミリーマート桜町店の近く(西側歩道)に位置しています。
花巻市の公式サイトでは「豊沢橋付近(南側)」になっています。

 

以下案内板からの抜粋です。

「掠奪(りくだつ)のために田にはいり/うるうるうるうると飛び/雲と雨とのひかりのなかを/すばやく花巻大三叉路の/百の碍子 (がいし) にあつまる雀」 ( 『春と修羅』 第一集、 「グランド電柱」)

この詩は、大正11(1922) 年の作品で、この年の7月妹トシを下根子の別宅に移し、賢治もそこから通勤 していた、そのころの情景です。 当時、 賢治の生家のある豊沢町通りは国道で、賢治は、この国道と奥州街道とのY字路を 「花巻大三叉路」と名付けていました。

[同心町 (どうしんちょう)] 

奥州街道の要所であった桜町二丁目は、 向小路 (むかいこうじ) と呼ばれていました。 藩政時代、この街道両側にそれぞれ十数軒の同心 (下級武士) の住居が並び、 地元ではこの地域を同心屋敷と呼んでいました。 現在は、移築・保存された2軒が市有形文化財に指定されています。

賢治は、 向小路をひそかに 「同心町」 と呼んでいました。 羅須地人協会で自炊生活をした当時、自ら雪菜とヒヤシンスを積んだリヤカーをひき、 向小路を行く様子を、詩に詠んでいます。

「向ふの坂の下り口で / 犬が三疋じゃれてゐる/子供が一人ぽろっと出る / あすこまで行けばあのこどもが/ わたくしのヒアシンスの花を/ 呉 (く) れ呉 (く) れとって叫ぶのは/いつもの朝の恒例である」

(「春と修羅」 第三集、 詩「同心町の夜明けがた)

[実相寺 ( じっそうじ)の林] 

「兄弟の穂吉といふ梟は、そこで大へんきまり悪く思ってもちもちしながら頭だけはじっと垂れてゐました。 二疋はみんなのこっちを見るのを枝のかげになってかくれるやうにしながら、 <おい、 もう遁 (に) げて遊びに行かう。 > くどこへ。> <実相寺の林さ。><行かうか。> <うん、行かう。 穂吉ちゃんも行かないか。 >」

(童話 「二十六夜」)

ここは、中世の有力者・十二丁目氏の菩提寺である実相寺があった場所ですが、 江戸時代初めにはすでに廃寺になってしまいました。

花巻大三叉路とは?

つまりは花巻大三叉路は、賢治さんが名付けた国道と奥州街道とのY字路を指します。
賢治さんは「春と修羅」第一集「グランド電柱」の中で、この場所を舞台にした詩を書いています。
花巻大三叉路は、昭和20年8月10日に米軍の空襲を受けた花巻の中でも被害が大きかった場所の一つです。
上記の理由により、花巻大三叉路には賢治ゆかりの地案内板が設置されているのです。

 

賢治さんが名付けたY字路

あまり知られてはいませんが、春と修羅の中で、この場所を舞台にした詩を書いていること、イギリス海岸同様賢治さんが名付けたということで賢治さんゆかりの地案内板に選ばれました。

花巻大三叉路を探してみましょう。
花巻農学校跡・花巻警察所跡も探してみましょう。

hanamaki.hatenablog.com

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